陸奥(長門型戦艦)



 陸奥(むつ)は旧陸奥国を名前の由来に持つ、日本海軍の戦艦で、長門型戦艦の2番艦である。横須賀海軍工廠で建造された。長門と同様長く国民に愛されたが、 人気では長門を凌ぎ、戦前男の子が学校の図画の時間に描くものといえば決まってS字型煙突を持った最新最強の軍艦、「戦艦陸奥」であったといわれる。

 1921年のワシントン海軍軍縮条約で、未完成艦は廃艦とする条約により、そのリストが作成され、その中には陸奥が含まれていた。日本側は陸奥は完成していると主張したが、 英米は未完成艦であると主張した。英米で「天皇(明治天皇)の名(睦仁)だからか」とまで言われるほど熱心な交渉であったと伝わる。 実際、陸奥は10月24日完成とされているが、実態は突貫工事にも関わらず同日までに一部の艤装や武装、備品の装備が間に合わず、未完成のまま海軍に引き渡されている。 尚、長門との艦形状の違いは、艦首フェアリーダーの位置がやや先端に向かっているのが陸奥とされ、長門はやや後方に付く。また、後橋や、艦橋の指揮場の形状の違い等も一般的な 見分け方である。新造時には、長門の舷側にある魚雷防御網ブームが陸奥には無いことも識別点となった。

 1926年から、長門共に第一次改装が決定され、波切りが悪いとされた艦首部分の変更工事が行われ、陸奥の艦首は横から見ると鋭角となった。しかし、予定通りの効果が出なかった ため、長門の方では艦首の形状変更は行われなかった。
 また、第二、第三主砲塔の測距儀を10メートル型に換装し、高角砲も従来型の8センチ砲から八九式12.7センチ四〇口径連装4基、ヴィッカース式40ミリ連装機銃2基に変更した。 機関は長門と同じく、屈曲式の煙突へと設計変更を施した。
 艦橋前部にも予備指揮場を設け、この時期が長門との艦形状の違いが一番目立ち、最も国民から親しまれた姿となった。
 1936年には、対米戦を見越して更なる改良が加えられ、バルジの装着、艦首部分延長水平防御改善、主砲、高角砲の仰角上げ、注排水区画を増させたことにより、より重厚な形となり、 同クラスの英米戦艦に対抗しうる力を持つように生まれ変わった。主砲砲身も、廃棄艦となった加賀及び、土佐で用いられた砲身と仰角を伸ばした41センチ砲を改良したものにした。
 艦橋部にも手を大幅に加えられ、前鐘楼と呼ばれる前部艦橋は、最上部に九四式方位盤照準装置を抱き、その下が主砲射撃所となり、以降下に向かって、戦闘艦橋、副砲指揮所、 副測的所、上部見張所、主砲前部予備指揮所、羅針艦橋、副砲予備指揮所、司令塔艦橋下部艦橋と続くようになった。
 蒸気缶は艦本21基から、8本に減少し、これによって煙突は1本となり、燃料搭載量も増加して、航続力も16ノットで8,650海里に増えたが、速力は25ノットに低下した。

 太平洋戦争中は広島湾周辺で他の戦艦ともども温存され、1942年6月5日のミッドウェー海戦に参加したが、部隊後方のため戦局への寄与は無く、第一航空艦隊壊滅後に呉に帰投している。 その後も大きな動きが無いまま1943年6月8日、広島湾沖柱島泊地に停泊していたが、修理を終えて桂島迫地に向かう連合艦隊旗艦の長門に旗艦ブイを譲るため、午後1時から繋留替えを する予定になっていた。航海科員が錨地変更作業の準備をしていた12時10分ごろ、陸奥は三番砲塔付近から突然に煙を噴きあげて爆発を起こし、一瞬のうちに船体が2つに折れ、 前部部分はすぐに沈没した。後部部分は艦尾部分を上にして浮いていたが、程なく沈没している。乗員1,474人のうち助かったのは353人であり、死者のほとんどは溺死でなく爆発による ショック死だった。
 陸奥の南南西約1,000mに停泊していた扶桑は「陸奥爆沈ス。一二一五」と発信、以後陸奥に関する一切の発信は禁止された。また付近の航行は禁止され、死亡した乗員の家族には 給料の送金を続けるなど、陸奥の爆沈は一般には秘匿され、国民は戦後になるまでこの事件を知らされなかった。陸奥爆沈時の第一艦隊司令長官であった清水光美中将は責任をとらされる 形で予備役に編入されている。
 爆発事故直後に査問委員会が編成され、事故原因の調査が行われた。検討の結果、自然発火とは考えにくく、直前に陸奥で窃盗事件が頻発しており、その容疑者に対する査問が行われる 寸前であったことから、人為的な爆発である可能性が高いとされるが、真相は未だに明確になっていない。

 戦局に寄与することなく瀬戸内海で爆沈した陸奥であったが、戦後の混乱期においてその存在が省みられることもなかったため、戦後に榛名、伊勢、日向のように引き揚げ後に 解体されることもなく、1970年の引き上げまで柱島沖で眠り続けた。そのため、引き上げ後にその艦首の一部や菊の御紋章、主砲身や主砲塔など多くの装備が回収され、日本各地で 陸奥の装備が展示された。

艦 歴
起工
1918年6月1日
進水
1920年5日31日
就役
1921年10月24日
喪失(沈没)
1943年6月8日
除籍
1943年9月1日
建造所
横須賀海軍工廠
仕様・諸元
  新造時(1920年) 大改装後(1936年)
排水量 基準排水量:32,720 t
常備:33,800 t
基準排水量:39,050 t
公試:43,400 t
全長 215.80 m 224.94 m
全幅 28.96 m 34.60 m
喫水 9.08 m 9.46 m
機関 ロ号艦本式専焼缶15基同混焼缶6基
オールギアードタービン4基4軸
(80,000shp)
ロ号艦本式大型4基同小型6基
オールギアードタービン4基4軸
(82,000shp)
最大速 26.5ノット 25.28ノット
航続距離 5,500海里/16ノット 8,650海里/16ノット
乗員    
兵装 ・四一式40.6cm連装砲 × 4基
・四一式14cm単装砲20門
・8cm単装高角砲 × 4門
・三年式機銃 × 3挺
・53cm水中魚雷発射管4本
・53cm水上魚雷発射管4本
・四一式40.6cm連装砲 × 4基
・四一式14cm単装砲18門
・12.7cm連装 × 4基
・7.7mm機銃 × 3挺
・40mm連装機銃 × 2基
・25mm連装機銃 × 10基
装甲 ・水線 305mm
・甲板 75mm
・主砲前盾 305mm
・主砲天盾 152mm
・副砲廓 152mm
・水線 305mm
・甲板 75mm
・主砲前盾 457mm
・主砲天盾 250mm
・副砲廓 152mm
艦載機 なし 3機(カタパルト1基)