武蔵(大和型戦艦)



 武蔵(むさし)は、第二次世界大戦中に建造された大日本帝国海軍の大和型戦艦の二番艦である。当時は武藏と表記された。 なお、戦艦武蔵は現在までのところ、日本が建造した最後の戦艦である。

 大和と同様に本艦の建造は極秘とされ、船台の周囲には魚網に使う棕櫚(しゅろ)のすだれ状の目隠しが全面に張り巡らされ、そのために棕櫚の価格が高騰することとなったほか、 付近の漁民らは「ただならぬことが造船所で起きている」と噂し、建造中の船体を指して「オバケ」と呼んでいたという。また、対岸にはアメリカ・イギリスの領事館があったため、 目隠しのための遮蔽用倉庫を建造するなど(長崎市営常盤町倉庫)、建造中の艦の様子が窺い知れないような対策を施した。 進水時には船体が外部に露見してしまうため,当日を「防空演習」として付近住民の外出を禁じ、付近一帯に憲兵・警察署員ら600名、佐世保鎮守府海兵団隊員1200名などを配置するなど 厳重な警戒態勢の中で進水式は挙行された。

 武蔵は1943年2月12日 連合艦隊の旗艦となる。1943年5月17日に金剛・榛名とともに山本五十六長官の遺骨を乗せてトラック島から横須賀へ帰還する。これが武蔵の初任務となった。 その後呉またはトラックに駐留し、ガダルカナル方面への戦闘にも参加していない。1944年2月24日 陸軍部隊輸送に参加。同月29日パラオに到着。1944年3月29日に米潜水艦タニーの雷撃を受け、 海水浸水2600t、戦死者7名、負傷者11人の被害を出して呉に到着。その後、1944年4月22日には呉で対空戦闘の為の改装工事完了させ、25mm三連機銃18基増設した。1944年5月4日に巡洋艦大淀に 連合艦隊旗艦を譲る。その後、1944年6月15日のマリアナ沖海戦、1944年10月22日のレイテ沖海戦に参加。1944年10月23日 パラワン水道にて摩耶の乗組員を救助するも10月24日にシブヤン海にて 沈没した。

 レイテ沖海戦におけるシブヤン海海戦において、米軍機の雷撃20本、爆弾17発、至近弾20発以上という軍艦史上最多・空前絶後の損害を受けたが、被弾数に比べて長時間交戦できたといわれる。 1944年10月24日午後、速度の低下した武蔵は艦隊から離脱。駆逐艦「清霜」に伴われてコロン湾を目指したが、現地時間19時35分頃、ついに艦尾を高々と上げて沈没した。沈没時には大爆発を 起こしたという記載もある。武蔵の沈没に伴う戦死者は猪口敏平艦長以下1021名、生存者は1376名。 生存者の半数以上はフィリピン守備隊に残され、陸戦隊としてマニラ市街戦に参加させられたりしたが、その多くは戦死してしまった。他にも隼鷹で日本へ帰還出来た乗組員もいたが、その他の 戦線に戦局悪化の口封じに駆り出された兵士も少なくなかった。沈没地点は猪口艦長の遺書を託された副長の加藤大佐が退艦時に記載したものが採用されているが、沈没地点が深海のために船体は 確認されていない。

[同型艦]
・大和
・110号艦(→航空母艦信濃)
・111号艦(未成)
艦 歴(武 蔵)
起工 1938年3月29日
進水 1940年11月1日
就役 1942年8月5日
喪失(沈没) 1944年10月24日
レイテ沖海戦
除籍 1945年8月31日
建造所 三菱重工業長崎造船所建造
仕様・諸元
排水量 基準:65,000 t
満載:72,809 t
全長 263.0 m
全幅 38.9 m
喫水 10.4 m
機関 ロ号艦本缶12基
艦本式タービン4基4軸
(150,000馬力)
最大速 27.46ノット(公試)
航続距離 7,200浬(16ノット巡航時)
乗員 約3,300 名
兵装(新造時) ・46cm45口径砲3連装 × 3基9門
・15.5cm60口径砲3連装 × 4基12門
・12.7cm40口径連装高角砲 × 6基12門
・25mm3連装機銃 × 12基36門
・13mm連装機銃 × 2基4門
兵装(最終時) ・46cm45口径砲3連装 × 3基9門
・15.5cm60口径砲3連装 × 2基6門
・12.7cm40口径連装高角砲 × 6基12門
・25mm3連装機銃 × 35基105門
・25mm単装機銃 × 25基25門
・13mm連装機銃 × 2基4門
装甲 ・舷側 410mm
・甲板 200mm
・主砲防盾 600mm
艦載機 零式水上偵察機・零式観測機他、最大7機
(カタパルト2基)