日向(伊勢型戦艦)



 日向(ひゅうが・当時の艦名表記は旧仮名使いで「ひうが」)は、大日本帝国海軍の戦艦で、伊勢型戦艦の2番艦である。艦名の由来は宮崎県の旧国名からで、この艦名は帝国海軍では 1代のみ、後に海上自衛隊の護衛艦「ひゅうが」に引き継がれた。三菱合資会社三菱造船所(現・三菱重工長崎造船所)で起工。1917年1月27日進水、1918年4月30日就役。

 扶桑型戦艦の4番艦として着工の予定が財政事情により大幅に遅れたため、扶桑型の欠点を改善し主砲の位置が変更されている。歴代艦長には、後に連合艦隊司令長官として捷一号作戦等を 指揮した豊田副武や、航空戦艦改装案を推進し、後に第四航空戦隊司令官として日向に深く関わることになる松田千秋をはじめ、宇垣纏・西村祥治など、戦史上重要な人物が多く名を 連ねている。

 竣工後、第一艦隊第一戦隊に配備、最新鋭の戦艦として、長門竣工まで連合艦隊旗艦を勤める。 満州国皇帝訪日の際の座乗艦としても使用された。太平洋戦争開戦時は、伊勢と共に 第一艦隊第二戦隊にあり、その戦隊旗艦を勤めた。 しかし、就役直後の1919年10月24日、房総沖で演習中第三砲塔の爆発事故を起こし、また1942年5月には、伊予灘で演習中に今度は第五砲塔の爆発事故を起こすなど、問題の多い艦でも あった。ただし、後者の事故直後に行われたミッドウェー海戦には、突貫工事により損傷した第五砲塔を撤去、その跡に25ミリ3連装機銃を4基搭載し、またこの工事の際に当時開発が 進んでいた対水上22号電探を試験的に搭載して、主力艦隊の一艦として参加を果たした。この戦いでは、機動部隊が壊滅する事態を受け、主力部隊は会敵することなく帰還したが、 その帰還途上の悪天候の折、日向の電探が艦隊の航路保持に大いに役立ったとの逸話がある。

 1942年の筒内爆発事故については、その爆発の瞬間の映像が現存している。主砲射撃演習中の日向後楼から、第五・六番砲塔の様子を撮影したものであるが、編集・検閲の際に それと気づかず、そのままニュース映画として放映してしまったという逸話がある。見た目では、発砲煙の様子がややおかしい程度で、映像における外見上の損傷が目立ったものでは なかったからであるが、砲塔内への爆熱の逆流などで死者55名とされている。 二度の砲塔爆発という危険極まりない事故を起こしながらも無事だったことは、戦艦河内や陸奥などの爆沈の例と照らし合わせると、非常に幸運であったと言える。 また、空母4隻を失うことになるミッドウェー海戦の時期に第五砲塔を事故で失ったことは、その後の本艦と同型艦伊勢の運命を大きく変えることになる。

 後部の5番、6番の主砲を撤去し格納庫及び飛行甲板を設け航空戦艦となる。ただし、「航空戦艦」という呼称は便宜上のものであり、正式な艦籍は戦艦のままであった。 通常の空母の半分以下の長さしかない飛行甲板では艦載機の着艦はできず、飛行甲板はもっぱら航空機整備・発艦作業用のスペースである。カタパルトで射出された搭載機のうち、 艦上爆撃機彗星二二型は攻撃後機体を消耗して空きのできた他空母や陸上基地へ着陸、着水可能な水上機である水上偵察機瑞雲は、飛行甲板上のクレーンで回収する方式であった。 改装後、伊勢と共に第四航空戦隊を編成し、松田千秋少将座乗の第四航空戦隊旗艦として捷一号作戦に参加したが、搭載予定の第634航空隊は先の台湾沖航空戦に投入されて壊滅しており、 航空戦隊でありながら搭載機は1機もなかった。 小沢本隊の前衛部隊として松田支隊を編成、米艦隊との砲戦を試みるべく南下するも会敵機会に恵まれず、後に本隊と再合流している。 本隊は空母瑞鶴をはじめ、空母4隻すべてを失う大損害を被り、その後米軍機の攻撃は日向・伊勢に集中したが、両艦長の巧みな回避運動と航空戦艦に改装された際に大幅に増強された 対空火力を存分に発揮し、無事帰還を果たす。

 1945年2月、広大な艦載機格納庫を利用した戦略物資輸送作戦・北号作戦で、全艦損害なしという奇跡的な成功を収めた後、燃料不足のため呉軍港に停泊していたが、7月24日から 始まった呉軍港空襲で呉港外の情島沖で米軍空母機の波状攻撃を受け、大破着底、同日艦橋右への直撃弾によって、艦長草川淳少将も戦死した。この年7月の時点で乗組員のうち約半数が 退艦していたが、これらの攻撃による乗組員の被害は、残存乗組員千余名中戦死者204名、重軽傷者600余名に及んだ。

 戦後の1947年7月、解体が完了してその波乱の艦歴を閉じた。なお、情島で着底した日向の様子を戦後に米軍が撮影したカラー映像が残っており、今日でもその被害の凄まじさを 観察することができる。

艦 歴
起工
1915年5月6日
進水
1917年1月27日
就役
1918年4月30日
その他
1945年7月24日
呉軍港空襲により大破着底、終戦後に解体
除籍
1945年11月20日
建造所
三菱合資会社三菱造船所
仕様・諸元
  新造時(1917年) 大改装後(1937年) レイテ沖海戦時(1944年)
排水量 基準排水量:29,980 t
常備:31,260 t
基準排水量:36,000 t
公試:39,657 t
基準排水量:35,200 t
公試:38,500 t
全長 208.18 m 215. 8 m 219.62 m
全幅 28.65 m 33.83 m
喫水 8.74 m 9.21 m 9.03 m
機関 パーソンズ式直結タービン2基4軸
(45,000shp)
艦本式タービン4基4軸
(80,000shp)
最大速 23ノット 24.5ノット  
航続距離 9,680海里(14ノット航行時) 7,870海里(16ノット航行時) 9,500海里(16ノット航行時)
乗員      
兵装 ・四一式35.6cm連装砲 × 6基
・四一式14cm単装砲 × 20門
・8cm単装高角砲 × 4門
・53cm魚雷水中発射管 × 6本
・四一式35.6cm連装砲 × 6基
・四一式14cm単装砲 × 16門
・12.7cm連装高角砲 × 4基
・25mm連装 × 10基
・四一式35.6cm連装砲 × 4基
・12.7cm連装高角砲 × 8基
・25mm3連装機銃 × 31基
・25mm単装機銃 × 11挺
・12cm30連装噴進砲 × 6基
装甲 ・水線 305mm
・甲板 5530mm
・主砲前盾 305mm
・副砲廓152mm
・水線 135mm追加等  
艦載機 なし 3機(カタパルト1基) 22機(カタパルト2基)