榛名(金剛型巡洋戦艦)



 榛名(はるな)は、日本海軍が初の超弩級巡洋戦艦として発注した金剛型の3番艦。  榛名の艦名は、群馬県にある上毛三山の1つ、榛名山に由来する。  戦艦にもかかわらず旧国名ではなく山岳名を持つ理由は、本艦を含む金剛級は当初「装甲巡洋艦」として計画されたため、 一等巡洋艦の命名慣例に従ったためである。

 本艦は当初「第二号装甲巡洋艦」として計画され、1911年4月、神戸川崎造船所(のちの川崎重工業)に発注された。  本艦は、主力艦として初めて民間造船所に建造発注された艦である。 一方同型艦の霧島は、三菱合資会社長崎造船所(のちの三菱重工業)に 「第三号装甲巡洋艦」として発注された。

 新造時は、川崎造船で製造したジョン・ブラウン社(川崎造船と技術提携)のブラウン・カーチス式直結タービンを本艦のみ搭載していた。  これは一つのタービンで圧力の異なる複数のシリンダーに分けて出力するエンジンで、それぞれのシリンダーを推進軸に直結して1基辺り2本の推進軸を 動かすものであった。   兵装上の特徴としては、主砲には従来のヴィッカース社製ではなく、国産の四一式35.6センチ砲が、本艦より採用された。  他の金剛級戦艦同様、榛名も新造時に53.3cm魚雷発射管を片舷4門ずつ計8門装備していた。

 1912年3月16日、川崎重工業神戸造船所で起工、1913年12月14日進水、1915年4月19日巡洋戦艦として竣工し、横須賀鎮守府に入籍した。  同年12月に第二艦隊第三戦隊に同型艦3隻と共に編入された。

 第一次世界大戦中は、中国方面・北支(中国北部)方面・ロシア方面などへの警備活動を行った。  同大戦中に水平防御力の脆弱性が問題視され、これを改善する必要が生じたことから、折りしも修理のため入渠していた本艦に水平防御力強化を施すこととなり、 併せて主砲射程延長などが行われた。 改装中の1921年にワシントン海軍軍縮条約が締結され、本艦を含む金剛級の代替艦と考えられていた天城型が建造中止を 余儀なくされ、金剛級を近代化して第一線の戦力維持を図ることとし、その際改装を一時終えて練習役務艦として現役を離れていた本艦は1924年より 引き続き近代化大改装を施されることとなる。 これにより結果的に榛名は、第一次近代化改装を最初に施された艦となった。  主な変更点としては、石炭・重油混焼缶から重油専焼缶への換装や上部構造物と船体の大幅近代化であるが、この改装によって重量が増したため速力が25ノットに 低下、このため後の1931年6月1日付で姉妹艦3隻と共に巡洋戦艦から戦艦に艦種変更された。

 改装後、1928年12月4日には昭和天皇即位を記念して挙行された大礼特別観艦式において、御召艦を務め、1931年11月8日には天皇による熊本行幸の際にも 御召艦を務めている。

 日中戦争前には、中国方面への警備活動をしばしば行っている。 折にふれ対空・航空兵装などの細かな追加改装を行いつつ、 1933年9月には海軍軍縮条約失効をにらんで二度目の大規模近代化改装が施されることとなり、今度もまた同型艦では本艦が最初となった。  丸1年をかけたこの第二次近代化改装では、動力部の刷新と船体・上部構造物の近代化改装が行われ、出力を新造時の倍としたことで速力も30ノットを 超える高速戦艦として生まれ変わった。 近代化改装が最も早かった本艦では砲戦距離延長に伴って高くなった後部艦橋を後部煙突と隣接させているが、 その排熱の影響が大きかったことから、後に改装された霧島などでは後部艦橋を後方に傾斜させて排熱を避ける工夫を施しており、この点が本艦と姉妹艦を 見分ける際の大きな特徴の1つとなっている。 なお金剛・比叡では主砲塔側面が角張っているのに対し、榛名・霧島では主砲塔側面が丸みを帯びていること、 本艦は2本の煙突間の空間が他の同型艦よりもやや広いのも金剛級各艦を見分ける特徴とされている。 

 太平洋戦争開戦時は高間完大佐を艦長として、第一艦隊に属し、三川軍一中将率いる第三戦隊に僚艦三隻と共に配属、同型艦金剛と第一小隊を組み南方作戦支援に 回された。 1941年12月4日、馬公を拠点に出撃し、陸軍の馬来上陸作戦支援を皮切りに、比島上陸作戦・蘭印(オランダ領東インド=現インドネシア)攻略作戦など を支援した。 この間、シンガポールを出撃した英戦艦プリンス・オブ・ウェールズ・同巡洋戦艦レパルスを中心とする英国東洋艦隊を迎撃すべく邂逅を図るも 果たせず、同艦隊が日本軍航空隊に壊滅させられるという一幕もあった(マレー沖海戦)。

 1942年2月には真珠湾攻撃などを終えて回航された南雲機動部隊と合流、同型艦4隻が揃ってインド洋作戦に従事、3月1日にジャワ島近海でオーストラリア方面へ 遁走する米駆逐艦エドソールを僚艦と共に砲撃により撃沈、3月7日にはクリスマス島砲撃を行った。 同年6月5日ミッドウェイ海戦では、霧島と共に機動部隊の 護衛に当たるが味方空母部隊は全滅、奮戦のすえ攻撃を受け炎上する空母飛龍の乗員を救助するが、榛名自身も至近弾を受けて損傷した。 本海戦帰還後、 高間艦が第四水雷戦隊司令官へ転属、6月22日、後任として石井敬之大佐が艦長に着任した。 また、7月14日には所属を戦艦部隊を主力とする第二艦隊へ移し、 金剛と共に第三戦隊を再編成した。 同年9月、激戦化したガダルカナル方面の戦闘に参加するため前進部隊本体に編入され、トラック島へと本拠を移した。  苦境に立った陸軍の要請により10月13日、金剛と共にヘンダーソン飛行場を砲撃で一時使用不能にした。 同年10月26日、ガダルカナル島を巡る一連の 戦闘の1つである南太平洋海戦に参加するが、空母艦隊同士の航空戦に終始し、また主力空母部隊とは別行動であったため、戦闘の機会も無かった。  同年12月24日に第三戦隊は、再編された空母機動艦隊である第三艦隊に編入、翌1943年2月ガダルカナルからの撤収作戦(ケ号作戦)を支援する。  その後いったん内地へ戻り修理や細かい改装などを施し再びトラック島へ向かうが、5月にアッツ島玉砕など北方戦局の悪化に伴って再び内地へと帰投待機し、 翌月トラック島へ戻った。 この間、6月14日に艦長が森下信衛大佐へと移った。 以降年末までトラック島やブラウン環礁方面で活動していたが、 特に戦闘などは起きなかった。

 1944年1月25日、戦艦大和艦長へと転任した森下艦長の後任として重永主計大佐が着任。 反攻作戦によりサイパン島に上陸した米軍及びそれを支援する米艦隊を 撃滅すべく計画された「あ号作戦」が発動され、同年6月19日マリアナ沖海戦に参加、戦艦大和など前衛部隊の一艦として出撃するも、主力空母部隊は大損害を 受け敗退、榛名も直撃弾2発を受けて損傷する。 しかしながら修理完了後も全速力を出すと艦尾が振動するなど「榛名」の戦力発揮に影響を与えた。  損傷修理と併せて舷窓閉塞など不沈工事や対空火器の大幅増強が行われている。 同年10月フィリピン・レイテ島に上陸した米軍に対し発令された捷一号作戦に 参加、本艦は栗田中将指揮の第一遊撃部隊の一艦として上陸中の米陸軍部隊を砲撃すべく進撃を続け、25日サマール島沖にて発見したスプレイグ少将指揮下の 第77任務部隊との交戦、いわゆるサマール島沖海戦では米艦隊を追撃したが、前述の艦尾振動の影響により「金剛」ほどの戦果を上げることができなかった。  混乱する戦局の中で栗田中将より撤退命令が下され、榛名もフィリピン西方海上において米軍の追撃により至近弾を受け損傷する。 このため内地に帰投、 呉にて修理を行った。 同年12月20日、高雄警備府参謀副長へ転任した重永艦長に代わり、軽巡洋艦矢矧前艦長・吉村真武大佐が着任するが、吉村艦長指揮の もと出撃する機会は二度と無かった。

 1945年に入ると敗戦続く日本では艦船を運用する燃料にも事欠く状態となり、レイテ沖海戦を生き延びた本艦も修理を受けた呉で停泊するのみとなった。  2月には呉鎮守府の警備艦となり、1945年3月19日、呉海軍工廠前に停泊中、ミッチャー中将率いる米第58任務部隊の艦載機による爆撃を受けたが、このときの 被害は軽微だった。 4月になって予備艦籍に入ると、マリアナ沖海戦後の改修で大幅に増設された対空火器や、副砲の大半及び対空指揮装置などを陸上防衛に 転用のため撤去されてしまった。 6月22日にB-29により直撃弾1発を受け、防空砲台となるべく呉の対岸・江田島小用沖に転錨、結果としてそこが最期の地と なった。 7月24日と28日の呉軍港空襲により今度はマッケーン中将率いる第38任務部隊による大規模な攻撃を受け、航空戦艦伊勢・日向や航空母艦天城らと共に 停泊していた榛名は、2番砲塔の砲側照準による3式弾射撃などによって激しく抵抗を行ったものの20発以上の命中弾を受け浸水、大破着底した。  このとき前部主砲や対空兵装の一部はなおも使用可能な状態であったというが、もはや本艦に戦う機会は無く、そのまま終戦をむかえた。 

 戦艦榛名は開戦時すでに艦齢26年の老朽艦であるにも拘らず最前線にあって主要海戦の多くに参加しており、しばしば損害を受けた。  その姿は、開戦直前に完成して最前線での主要海戦でもほとんど損害を負うことが無く「幸運の空母」とも賞される空母瑞鶴と対照的であるが、 この2艦は駆逐艦雪風などと共に「日本海軍の武勲艦」と評されることが多い。 また日本戦艦で最も多くの海戦を生き延び、その終末を解体という形で 迎えたことから、諸書には「戦艦榛名は戦後復興のための資材となった」旨の記述が多くみられる。

[同型艦]
・金剛
・比叡
・霧島
艦 歴(榛 名)
起工
1912年3月16日
進水
1913年12月14日
就役
1915年4月19日
喪失(沈没)
1945年7月28日
除籍
1945年11月20日
建造所
神戸川崎造船所
仕様・諸元
  新造時(1915年) 1次改装後(1928年) 2次改装後(1938年) レイテ沖海戦時(1944年)
排水量 常備排水量:27,384 t
満載排水量:32,306 t
基準排水量:29,330 t
常備排水量:31,785 t
基準排水量:32,156 t
常備排水量:35,600 t
 
 
全長 214.6 m 214.6 m 222 m 222 m
全幅 28.04 m 31.02 m 31.02 m 31.02 m
喫水 8.218m (常備)
9.419m (満載)
8.65 m 9.18 m  
機関 ヤーロー式混焼缶36基
(64,000shp)
ロ号艦本式専焼缶4基
同混焼缶10基(75,600shp)
ロ号艦本式大型3基
同中型6基
同小型2基
(136,000shp)
ロ号艦本式大型3基
同中型6基
同小型2基
(136,000shp)
最大速 27.5ノット 25ノット 30ノット  
航続距離 8,000海里(14ノット巡航時) 9,500海里(14ノット巡航時) 10,000海里(18ノット巡航時)  
乗員 1,221 名   1,315 名  
兵装 ・四一式35.6cm連装砲 × 4基
・四一式15.2cm単装砲 × 16門
・53cm水中発射管 × 8本
・短8cm砲 × 4門
・朱式6.5mm機銃 ×3挺
・四一式35.6cm連装砲 × 4基
・四一式15.2cm単装砲 × 16門
・8cm単装砲 × 4基
・53cm水中発射管 × 4本
・四一式35.6cm連装砲 × 4基
・四一式15.2cm単装砲 × 16門
・12.7cm連装砲 × 4基
・25mm連装機銃 × 10基
・四一式35.6cm連装砲 × 4基
・四一式15.2cm単装砲 × 8門
・12.7cm連装砲 × 6基
・25mm3連装 × 24基
・25mm連装機銃 × 2基
・25mm単装機銃 × 23挺
装甲 ・水線 203mm
・甲板 19mm
・主砲天蓋 75mm
・主砲前盾天蓋 250mm
・副砲廓 152mm
・水線 203mm
・甲板 19mm
・主砲天蓋 152mm
・主砲前盾天蓋 250mm
・副砲廓 152mm
   
艦載機 なし   3機(カタパルト1基) 3機(カタパルト1基)